先週は長い出張に行っていた。そして数年ぶりに、師匠と二人で会って話をしてきた。
お付き合いは10年を超えたが、この年月を振り返るとしみじみと自分が変わったのを感じて嬉しくなる。決して楽な道ではなかったが、間違いなく価値ある10年だった。
「10年かかるが、一緒に学ぼう!」と言われたら、多くの人は引いてしまうよねと師匠は言う。残念ながら、今、躊躇すれば、きっと10年後も同じことで悩んでいるだろう。人間がほんの数年で変わると思うのは、少し傲慢な考えかもしれない。
この師匠に言われたことを理解するのに何年もかかった。
「読んでごらん」「やってごらん」と言って頂いたことの積み残しを今も持っているが、ある時突然それができるようになったり、「今だ!」と感じる時がある。こういう学びを3年間で完了しろと言われたら、きっと私にはできなかった。その時「できた」と思ったことも、あとになってみると低い完成度だったと気付かされることもある。
おかしな例えかもしれないが、成長は猫を飼うことに似ているような気がする。
1年目、3年目、5年目と関係性が変わっていく。簡単には馴染んでくれないが、病気やケガをきっかけに急に親密になれることもある。お互いそこにいるのが当たり前になってきた時に、見知らぬ面を見せられてハッとさせられる。
人は「自分」というものをよくわかっていない。
それどころか、本当の自分から分離されている。
ほんとうは分離などできないのだが、そう思い込んでいるのだ。
自分と肉体も切り離されているように感じている人が多い。
身体的な実践の役割は、切り離された肉体を何とかすることではない。
「わたし」というものと、「からだ」との橋渡しをして、それが本来わかれることなどできなかったことに気付いていくためのものだ。そして自分というものの「取扱説明書」を、自ら紐解いていくことの入り口ともなる。
ほんとうの「わたし」がわかったとき、あなたはこの上ない幸福感に満たされる。
その感覚を知るために、まず自分自身を「意識する」練習をしていこう。
この世に生まれた時、自分の心身を思うように扱えず苦しんで泣く。次第に成長し、意識せずに使えるようになるが、その先に「改めて意識して使う」ことを学ぶと、その豊かさに驚くことだろう。
ヨーガが導く心身の状態は、「当たり前」のもの。苦痛がなくて当たり前のからだに、当たり前の状態を提供されても、それに気付く能力がないことが多い。
意識化を練習すると、この当たり前の状態のすばらしさに気付く。
「自分には何かが不足しており(または欠点があり)、罰を受けるのではないか」と感じながら生きている人もいる。
生きていく上で、なにか大きな力あるものが、あなたに罰を当ててきたりはしない。
そんなことを言ったりしたりする”人間“は確かにいる。それはただの人間のすることだ。
今、あなたは息をしているはず。
呼吸という祝福を受け取っていることを、この瞬間に感激と共に受け取って欲しい。
意識化は、呼吸から始まる。
№306 自分が好きですか
成長には上昇と下降の未知があるということについて、前回書いた。
下降の道は愛の道である。自分を許容し愛せるがゆえに、人のことも受け容れられるようになる。これは「頑張る」ことで到達できるところではなくて、脱力や挫折を通じて辿り着ける世界だ。
人には器というものがあるため、器に応じて様々な経験をする。
人を愛する器の大きさというものもあると思うが、それは自分を愛する容量と同じではないか。
自分を厳しく責めているときは、たぶん他者のことも受け容れ難い。他者のことが受け入れ難いという事実をもって、「あー、自分は今、自分にも厳しいのかも」とふりかえりをすることができると良いと思う。大事なシャドウワークになるだろう。
肉体を通じて世界を感じるということを、多くの方にもっと学んで欲しい。
今日恩師と共に、東京藝術大学奏楽堂という素晴らしいホールで、若い演奏家の力みなぎる演奏を聴いた。私は音楽を五感で聴き、感動を背筋で感じる。普段とは違うエネルギーの流れが生まれているのを感じる。
しかし、恩師曰く、ほとんどの人が音楽を頭で聴いているという。
音楽を聴いた感想を身体的な感覚で語れるだろうか?
では愛されている感覚はどうだろうか?
人に理解されて胸の奥が熱くなったり、憧れの人と過ごした時間の余韻を身体感覚で感じ自分の言葉で表現できるだろうか?
それをぜひ、やってみて欲しいのだ。
リラックスには身体感覚がある。
その感覚をどこであってもイメージして、できる限りその状態を再現すると、脳の働きも変化し、呼吸や心拍数、血圧なども変わる。
嘘みたいだが、練習すればできるようになる。
辛い思いを味わったことが思い出される時、過去のその瞬間と同じ感覚を、あなたは肉体にも感じている。だから癒しは体から始めなければいけない。
自分のことが好きだと本当に思えた時、それを腹の底から感じるだろう。お腹は温かくなり、血が全身を巡るだろう。まるで自家発電のように。
自家発電ができるようになれば人にも分けてあげられる。
東洋の伝統では、自分の悟りを人に伝えることが重視されている。いつかもっと深い悟りを得られる日を待っていてはいけない。今の小さな悟りの時からそれをしていかなくてはならない。
はじめは小さな発電所で、すぐに運転停止してしまったりすることもあるだろう。
再運転のスイッチは感覚にある。頭で考える必要はない(考えるとうまくいかない)。
愛され、充たされた、体が震えるような感覚を思い出せばよい。
忘れないで欲しいのは、「愛する」という自家発電は、あなたが「こんなことは褒められない」と思い込んでいる経験から生まれるということ。
大丈夫。きっとどこかに、愚かだと思う自分のまま、受け容れてくれるひとがいる。
「ダメだ」と言わないひとが、必ずいる。そういう人に出会って欲しい。
№305 自分のなかの信念②
「底の知れない沼のように、人間の意識は不気味なものだ。それは奇怪なものたちの生息する世界。」 井筒俊彦
ヨーガという言葉で想起されるものが、あまりよろしくない印象がある。
スタイルの良い半裸状態の人たちに取り囲まれて「フフッ、あなたって体がカタい上に、スタイルが今一つね」と嘲られた挙句、自分としてはありえないような姿勢を取らされて「もっと足を上げないとダメなのよ!」と叱責され、結果的に心身共に痛めつけられる、という感じだ。
人は、今の自分から変容したいという望みを持って何かに新しく挑戦しようとする。
その変容のことを「成長」ということが多い。小さな芽が芽吹き、天に向かって成長し花開くイメージだろうか。視線は上に向いていて、伸びよう伸びようとするエネルギーが満ちている。
成長のためにはいくつかの要素を押さえた取り組みが必要だ。
その要素とは、Body(肉体) Mind(心) Spirit(魂) Shadow(心の影)の4つで、このうちの3つまではやっている人もいるかもしれないが、影の領域はほとんど扱われていない。
しかし、この影の領域は怖しいほどの力を持っていると、体験的に感じている。
なので、私は絶対に自分の腹の声に従う。
これを無視すると、とんでもないしっぺ返しに遭うからである。このしっぺ返しは、人に悪口を言われたり意地悪をされたりするようなレベルとは比較にもならず、人生がひっくり返って地獄に落ちたような気にさせられた上、現実の方も壊れてしまうという恐ろしいおまけがついているのだ!(あくまでも私の主観として)
腹の声を聴くためには、幼少期から植え付けられてきた「常識」を意識的かつ客観的に捉え直す必要がある。自分が信じていると思っていることが、実は誰かが思う「良きこと」であったりするからだ。
自分自身の腹の声と、誰かが植え付けた信念の間にズレがあると、ネガティブなものごとに耐えられないような気がする。そして心が狭くなる。
誰かに対して愛の気持ちで向かい合えない時は、自分のシャドウが動いていることが多い。そういう時には黙って自分と向き合って、自分以外の他者や、自分には関係ないと思っている何かに投影していたものを引き戻した方が、豊かに生きられる。この豊かさは、心や人間関係だけでなく、経済や社会的な関係性にも関連していると思う。
こういった作業を一人で行うのはなかなか難しいので、信頼できる誰かに助けて貰いながら、時間をかけて取り組んでほしい。
シャドウ領域を自分に引き受けて生きている人は、心が広い。そして優しい。
私にももちろん、そういう師や仲間がいる。どんなにバカなことをしても、決して私を見捨てたりしない、厳しく叱責したりもせずに待ってくれる人たちだ。
そういう存在が自分の周囲に増えてきてくれるにつれ、その愛情に支えられて自分もだんだんと心の影と向き合えるようになってきたと感じている。
上に伸びようとするエネルギーと待ってもらえる余裕、そして愛。
成長には上昇と下降の双方が重要で、このふたつ要件を備えていることで、たとえどんな困難があっても後悔しない学びになるだろう。
№304 自分の中にある信念①
かねがねトラウマケアは万人に必要なのではないかと思ってきたのだが、腸と脳に関する勉強をして、約4割の方が18歳までにトラウマ的な体験を持っており、そのために年齢を重ねたあとも心身の不調を感じているということを知った。
トラウマ的記憶はカラダに刻みこまれている。頭の中にではなく。
似たような感覚をキャッチすると、自動的にストレス反応が起きてしまう。
誰しも幼い頃、親を始めとする周囲の大人の何気ない一言を、批判的に聴くことは出来ない。そのため、自らに対する誤った信念を持ったまま成長し、長じてからもその信念を改変できずにいる人がとても多い。
記憶のほうを書き換えることは可能である。しかしちょっとコツが必要である。
どうすればいいのかというと、体の誤作動を修正していくことから始める。
自動運転で生きているのはとても便利なのだが、そもそも入力されたプログラムがおかしかったら大変である。どうにも進行方向がズレてしまっていたり、場合によっては壁にぶつかって大破してしまうこともあるかもしれない。悪路を走り続けるために、車体に無理がきて壊れてしまったりすることもありそうだ。
まず、どんな運転状況なのかを観察することから始めなければ。
どうもこれはマズイと思ったら、いっそのことマニュアル運転に変更する。
これが「身体的アプローチ法」のキモになる。
生きるに当たって肉体を使っていない人はいないと思われるので、普段使用しているものを改めて意識的に動かしてみることで、「えー、なんでこんなことに…」ということに気付くことができる。意識化というものだ。
量子論でも、観察する行為が物質に影響を与えると言うそうだが、人間のからだもモノである以上、小さな粒からできているのであって、「私だけはそういった法則から自由だ!」ということを言い切れる人はほとんどいないだろうと思う(中には、そういう心持ちで世を渡っている人もいていい)。
なので、“私”が自分の肉体を「観察する者」になってしまう意気込みである。
客観視というアプローチだ。
この自分の肉体の客観視というのは、愛を持って自分を見る行為に他ならない。
客観的に見るのだから、ジャッジをしないことがなによりも大事だ。
こういったアプローチで自分と向き合うことを意識的に、常時(もしくは定期的に)行っていない限り、自分のことなんててんで知らないのである。目は外に向いているので、人は自分以外のことばっかり気にしている。
視力には本来二種類あって、外を見る力と自分の内側を見る力がある。
ウィルバーの訳書ではこの内向きの眼を「観想の眼」と表現しているし、インドの古典の訳書だと「霊の眼」とある。暗闇を照らす灯台の灯り、もしくは星の光のようなものかもしれない。
闇夜で道に迷う旅人に、ゆく道を示すようなこの内面の視力を、養っていきたいものだ。
№303 瞑想は座って行うものなのか
“ヨガ”というものはまあまあ世間に認知されているので、「ヨガやりましょう!」というだけで、なんとなくクラスができたりする。しかし、そこが「だれのための、なんのための場なのか」ということは、あまり考えられていないことが多い。
資格を取ったので教えるよ、というような場合もある。
それはいったいだれのためのクラスなのかというと、“教えたい人のため”だったりする。
だれのためにその知識・技術を使うのかを考えて運営されている教室は、この世にどれほどあるだろうか。医療や教育の世界でも、同じようなことが起こっているのかもしれない。
ヨガ(本当はヨーガ)の目的は、ヨガ語で表現すると「解脱」である。
これをこのまま生徒さんに言ってみたら(さあ、一緒に解脱しましょう!)、きっと二度と来ないだろう。ではこの「解脱」という言葉の心は何か?。
ヨガはポーズを取るものだと思い込んでいる人もたくさんいる。
ではなんのためにポーズをとるのか。
これも解脱のためである。
解脱というものに至りたいがゆえに、その直接のアプローチ法である「瞑想」をできるようにならねばならないので、まずポーズというもので準備をするわけだ。
では、「いまあなたが“苦しいと感じているもの”を手放すことができる方法があるとしたら、知りたいですか?」と聞かれたらどうだろう。
瞑想をすることにも、ポーズをとることにも、目的があって欲しい。
座れば、ポーズを取れば、どうにかなるわけではなく、あなたがこうなりたいといま思い描ける状態に移行するためのヒントを手に入れたい!ということを、世界に対して表明する行為のひとつがヨガなんじゃないかな。自分が自分だと思っているもの(肉体など)と、本当の自分と、世界のあらゆるところに満ちている知性とをつなぐのがヨーガなのだから。
この場合の“世界”というのは、目では見えない部分(微細、元因)を含む。
目に見えている世界なんて、ほんのわずかしかない。
いまがどんなふうで、
それを自分自身がどう評価していて、
そこにどんな感情があって、
からだにはどんな感覚があって、
最終的にどんなふうになれば自分は「楽だな」と感じられるのか。
解脱という言葉を、すごく分かりやすく表現したら、
「え、そういうことだったの?! なーんだ、じゃあ大丈夫だ。」
という気分かもしれない。
だから、静かな場所にじっと座ったり、どこかに籠ったりすることで瞑想を習ったりしなくてもいい。心の底から安心できる方法を知って、いつでもどこでもその心持ちが再現できるようになった時、瞑想したと言えるのかもしれない。
そのとき、あなたの行うあらゆる活動が瞑想になる。
どんなに哀しいことがあっても、自分というものを愛おしんでいられるようになる。
№302 自分のなかにあって、最も力強いもの
ヨーガ的な世界観では、人間は五層構造でできていると言われる。
残念ながら私は「霊視」が出来ないので、肉体以外の五臓を霊の眼で見ることができない。なので、目を閉じて感じてみる。
一番外側が肉体。
食物鞘と呼ばれ、五種類の粗雑元素(地・水・火・風:空)からできている。
ひとつ内側に入ると、生気鞘。
これは薄い膜で、肉体を活性化させている。
肉体の内外を問わず、その全域にわたって満ち溢れ、肉体が活動できるように生命力を送り込んでいる。外形は肉体と全く同じ形で、より精妙なものでできている。
以上の二つが「粗雑体」に含まれる。
頭蓋骨内部にあるブラフマランドラ(別名サハスラーラ)の内部が、私たちの微細体の居処。理智は楕円形をして輝いて見え、その頂上部に意思が輝いている。意思は同時に二つ以上の物体を知覚することができない。常に怠ることなく、理智からの判断を実行しようと努めている。また、意思は感覚器官の王と言われる。
理智とは理解能力のことで、二つの状態になり得る。
①真理を保有する状態
②目まぐるしく動く動性に、不純な暗性が混じった状態 =これが通常の状態
以上、二つが「微細体」であり、肉体の動きのすべては、この微細体から送られてくる力(知識・運動)や刺激によってのみ引き起こされる。
もう一つの「元因体」が、微細体内部に満ち溢れており、ここから微細体へと生命力を送っている。これは微細体よりさらに精妙な体。
光の塊のように見えるが、本来は生命力がないものであり、その活動力を「歓喜鞘」から受け取っている。
以上三種の体(粗雑体・微細体・元因体)は、生命を持たぬものであり、五つの鞘ぜんぶの生命活動が生じるのは、生命(真我)がそこに宿っているからだ。
心臓空間内の奥深い洞窟(タネなしブドウくらいの楕円形の空間)に真我とブラフマンが宿っており、これが私たちの生命原理である。
真我は精妙にして極小、ブラフマンは万物の中にあって極大。
無始無終の存在。
この二つを霊視し得た者は、二極の対立する感情を克服できるとされている。
食物鞘と呼ばれる肉体が、私たちの生命原理(真我)を最も束縛しているもの。
肉体に病気や不調が生じる時に、肉体を何とかしようとしてもあまり意味がない。力とかエネルギーと呼ばれるものは、実は別の体から送られてくるものだからだ。このエネルギー(生命力)があれば、肉体は生き長らえ、そのすべての機能を果たすことができる。
しかしこの微細体もまた命を持つものでなく、その力は元因体から受け取っており、そのまた元因体も自分で生命力を生むことはできない。
となると、自分の心臓の中の小さな洞穴の中にある生命力そのものに、治癒を望まねばならないのだが、そのためには「自分が誰か」に気付かなければならないようだ。
ヨーガというアプローチ法に私は大いに助けられたが、サンスクリット語の専門用語なども難解であるが故に、その恩恵に浴するために、始めは身体的な形に捉われるのは致しかたない面もあるのかもしれない。
何度も言うが、表現法を考えて、“自分のなかにあって最も力強いもの”に働きかける術をみんなで練習したいものだ。
今日、久々に出雲大社さんにお参りしたのだが、大社さんにあるエネルギーと同質のものが自分のなかにもあるとしたら、ちょっとすごいではないか。