蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№295 微細な運動、再び

神経可塑的な動きによって、脳内の変化が呼び起こされ、結果として慢性的な痛みの解消に繋がる、ということについて語ってきた。 
 
具体的な動きについて、もう少し詳しく知りたいという方もおられると思うが、理想的には、教師によるインストラクションに従って練習していくのが良い。 初めから自力でやろうとすると、いま既にある回路の力の方が優って挫折してしまう可能性があるからだ。
 
教師の役割は、動きを教えることにはない。ただ動いて治るのであれば、教室も教師も不要だ。ではその役割は何かというと、これまでとはまったく違うことをやり易くする環境を整えることにある。
 
個人レッスンなどでは、ご希望により自宅での指導を行うこともある。しかし、自宅という環境では実は変化が生じにくい。別の環境にあえて移動をすることで、変化はより起こりやすくなる。
 
とは言え、これは理想論である。
どんな環境でもよいからやってみるのが良い。最近は世の中も便利になって、ネット環境さえあればオンラインでインストラクションをかけることも可能だ。カフェに座って、ヘッドフォンで声を聴きながら、目を閉じて指を微かに動かすということでも、変容は期待できると私は考えている。 
 
さて、実際の動きについてもう少しお話してみたい。
痛みがある場合に患部を動かすと「痛い」という感覚が生じるだろうが、この「痛い」という感覚を、改めて感じなおして欲しい。
改めて感じる際には心を落ち着かせてほしいので、呼吸というツールを活用してみよう。吸う息よりも吐く息の方が長い状態をつくれれば、心は次第に落ち着いていく。この行為を呼吸だけでやろうとするとハードルが上がるので、痛くない部位を使ってやってみよう。 
 
例えば、手首には痛みはないとして、手のひらを上に向けて膝の上に乗せる。呼吸に合わせて、手首という部分を動かしてみる。意識は、手首に向けておく。吸いながら、手首を起こして手の平を自分に向ける。吐くときは、手の甲を膝に近付けるように、手のひらを上(天井)に向ける。この時、吐きながら行う動作を、吸う時の倍の長さで行って見て欲しい。
 
これはブリージング・エクササイズと呼ばれる動きで、数回の動作で自律神経の働きを調和させることができる。痛みというのは緊張状態と関連しているので、慢性的な痛みがある場合は、このように呼吸に添えて行う動きだけでもかなり変化を感じられるはずだ。
 
微細な動きは、このブリージング・エクササイズに「感じる」ということをしっかりと添えていく。ヨーガでは、あらゆる物体のなかにプラーナという力が働いていると考えられている。机などの物質にもそのプラーナは宿り、ただ自由度に差があるだけだ。私たち人間は、自分の意思のままに活動ができる高い自由度を持っている。
呼吸はこのプラーナを調えることができる。サンスクリット語で呼吸法のことを「プラーナーヤーマ」というのはそのためだ。微細な動きでは、呼吸と動きを添えながら、自分の体の中のこのプラーナの働きを感じるような気持ちでやってみて欲しい。 
 
痛みがある、と感じるところは、プラーナの流れが悪いかもしれない。冷たく感じるかもしれない。色はどうだろう。耳を澄ませてその音を聴くとしたら、どんな音だろうか。 こういう感受性を自分の肉体に向けてみると、「痛い」という感覚が非常に多彩な体験であることがわかる。「痛い」という一言だけでは、とても表現できるような感覚ではないに違いない。それは自らの心身の働きと密接に関わりを持ち、気分がいい時には調子よく働き、ストレスを感じる時には痛みというサインをを発して、何かを教えようとしてくれている。 
 
時間をかけてこういう微細な動きを練習していくと、具体的な患部が自分自身で明確になる。腰が痛いと思ってきたが、具体的には右のお尻のある特定の部分が突っ張って痛むのだとか、反った時には痛くないが、丸めたら痛みを感じる、などという自らの肉体に関する情報が多く手に入るようになる。 
 
痛みは体に生じるが、その原因は肉体ではないところにあることも考えられる。 次回はこのことについてお話しよう。

№294 神経と私のあいだに生じている誤解について

さて、前回、目の玉をゆっくり動かしてみるという実験をしてみた。
目の玉をゆっくり動かそうとする時、あなたは何を考えていただろうか。 目の玉を動かすことしか考えていなかったと思う。
治癒へのヒントはここにある。そしてここにしかない。 これは、何度強調しても足りないくらい、大切なことなのである。
 
「シロクマの実験」というのをご存知だろうか?
今から10分間、シロクマのことを考えないでください、と言われたら… 考えずにはおられないのだ。
 
あなたの肉体が不愉快な症状を呈している時、それについて考えないことは難しい。しかし考えれば考えるほど意識はそこに集中し、神経系はそれに反応するように痛みの回路を強くしていく。
 
この痛みの回路は脳内にある。患部にはない。
 
あなたの痛む腰は、痛くない可能性が大である。しかし、かつて痛かった時に出来た脳内の回路は、いまだに生きて活動をし続けている。「痛い」という感覚が、実のところ現実にそぐわない架空のものであり、注意深く感じてみることを練習すると、これまで痛みとしてざっくり括ってきたものが、もっと多様な感覚であることに気付く。
 
さて、腰痛の場合は「椎間板ヘルニア」という診断名をつけられることが多いが、では所見上ヘルニアの状態にある人は絶対に腰が痛むのだろうか?
 
答えは“YES”でないとおかしいはずである。
 
ヘルニアだから痛いのです、だからヘルニアを除去したら治ります、と言われ、どれだけの方がその体にメスを入れてきたことだろう。
 
ところが、所見上ヘルニアであっても、痛みがない人がこの世にはごまんといるというではないか。このことを、私は数年前の研究総会で初めて知った。このことを語ってくれたのは某県の整形外科の医師である。「手術しても治らないものがほとんどなのだ」と聞いて、心底魂消た。
 
同じようなことを、日本一心臓バイパス施術を行っているというS記念病院の医師からも聞いた。「心臓手術は成功したが、心臓病は治らない例が多数ある」という。
 
病とは何なのか、痛みとは何なのか。
 あなたが楽になっていくためには、あなたの心のなかの信念を調べてみる必要がある。
 
そしてこれまでの信念に従って必死に働いてきた神経系の働きを、ともに協力して変えていく必要がある。このために、肉体という道具が素晴らしい働きをしてくれる。
 
いくつかのルールを守って動作を行っていくことで、想像もしなかった変化を経験するだろう。
 
思うに、ヨーガという技法が4000年ともいう歴史を持っているのは、このような人の心と体の関連性について深い理解があったからだ。信じる必要はないが、試してみる価値はある。
 
私の言うことを、嘘ではないかと思っていても構わない。
しかし自分の心身の持つ不思議な力だけは、信じてみて欲しい。しばらくの間試してみても、あなたが失うものは何も無いはずだ。

№293 「神経可塑的な動き」とは何か

目の前に人差し指を一本立てて、可能な限りゆっくりと動かしてみて頂きたい。 大事なポイントは「ゆっくりであること」だ。自分ではゆっくり動かそうとしてみても、ワープするように移動してしまうことがある。
指なら上手くいくという場合は、目の玉でやってみよう。
目を閉じて、目の玉を左から右へ、うんとゆっくり移動させる。多くの方が、部分的にジャンプをしてしまうと思う。 
 
毎日これを練習していたら、じきに途切れの無い滑らかな動きができるようになる。この状態が達成されるまでの日数には個人差がある。 これが「神経可塑的な動き」であって、ゆっくりとした滑らかな動きができるように、あなたの脳の中で神経的な変容が起こったことを意味する。 
 
ゆっくりな動きが、脳の注意を引く。普段の生活の中で何気なく行っている動きはオートパイロット状態で自動的に行われているが、あえてゆっくり動くことは、動作という行為をマニュアル運転で行うようなもの。同時に様々な事に意識を向ける必要が生じ、脳の働きは活性化する。
 
慢性的な痛みがある方は、「慢性痛のための回路」を持っている。 痛いなあ、と思う度に、この回路は強化される。あなたがそのことを考えて、決してハッピーではないとしても、神経はそういった判断はしないので、「いつもいつも考えてるんだから大事なことに違いない。しっかり補強しなくては!」と頑張ってくれているのである。 ここで肉体と私との間に、誤解が生じている。
 
この誤解は解消することができる。お互いの理解のための方法は、東洋では古くから伝わってきているのだが、残念ながら宗教的・精神的な用いられ方をしてきたために、これがカラダの問題にも効くなんて思っておられない方がたくさんおられる。 
 
考える・思うということは、神経にとっては電気信号として受け取られている。 頭の中や心のなかで考えることは、誰にも知られていないと思っている方がいるのだが、それもまた誤解である。 思うこと、考えることは、電気信号として伝わり、脳や腸に指令を発しているらしい。 信号を受け取った側は、それを重大指令として全身に伝えている。その結果、呼吸数が変化したり、血圧が変動したりしている。そういった目に見えない変化を、肉体は間違いなく表現しており、表情やふとしたしぐさとなって表れている。「望診」という診断方法は、この無意識の肉体の状態を捉えるものだ。
 
このように、意識せずに肉体に影響を与えている「考える・思う」の方向性を、日々の中で少し調整していくことが、慢性的な痛みを改善するために非常に重要である。これは、今この文章を読んで皆さんが感じられる以上に大事なことである。医薬品や手術では決して達成されない変化を、確かに起こすことができる。 
 
次回は、このお互いの誤解についてもう少し掘り下げてみよう。

№292 慢性痛は治らないのか②

事故してけがをしたとか、転んで骨折したとかいう時には、即座に病院に駆け込んで医療技術によって助けてもらおう。
こういう待ったなし!のものに関しては、西洋医療は素晴らしい力を発揮してくれる。これまでに間違いなく多くの人々の命を救ってきた。 怪我や感染症の時に、心を落ち着けたりする必要はない。すぐに救急車を呼ぶか、病院に駆け込んで欲しい。 
 
慢性痛というのは、以下のように定義されているらしい。
『慢性疼痛とは,3カ月間を超えて持続もしくは再発する,または急性組織損傷の回復後1カ月を超えて持続する,または治癒に至らない病変に随伴する疼痛である。』
★ 痛みの持続期間が、3カ月間を超えている。
★良くなったと思ったら、また痛くなったりする。
こういった痛みに心当たりがある方。 あなたのその痛みを治せるのは、あなただけである。
 
 残念なことに、「この痛みはきっと治らない」「ずっと付き合っていくしかないんだろうな」と諦めてかかっている人が多いということ。
こういった考え方を信念として採用し続けている限り、その慢性痛は治らない。
手術でも注射でも、薬でも治らない。
鎮痛剤を使っていたら、ますます困ったことになる。 慢性的な痛みを止めるために鎮痛剤を使用すると、結果として血流が低下してますます悪くなってしまう。 
 
この痛みが治らないことに業を煮やして、腹が立つくらいになるとちょうど良いのではないかと思う。
「なんで病院に行っても治らないんじゃい!」
「ええい、自分で治してやるわ!」
という心持ちになってみたりすると、ふと、新しい情報や治癒に繋がる技術に出会えたりするような気がする。
 
ちなみに、これまでヨガ教室で腰痛を克服していかれた方々は、そんなに真面目な生徒さん達ではなかった。ただ、毎週一度のクラスに淡々と通い続けただけ。家で頑張って実習をしてくれるような人はほとんどいなかった。
 
では、実習を自宅でもやっていたら、もっと早く良くなったか?
答えはNOだと思っている。
この問いに対する答えがYESだと思う方は、ヨガを体操の側面だけで捉えている可能性がある。
 
教室では、うまく集中できるような状態になれるようお手伝いする。
これが教師の最も重要な仕事だ。
自分の肉体を意識化し、客観視できるようガイドする。呼吸に指示を与えて、神経の働きが変わるように導く。 来た時に痛んでいたととしても、痛くない状態を作り出し、「ああ、痛くない。気持ちいい。」という心持ちになってもらう。 
 
こういう状態になるのはなかなか難しい。
肉体に痛みがある場合は特に、意識が痛みに向き、体のその部分を何とかしてやりたい(取り去って捨ててしまいたい!)という思いが、自分自身を苛むことにもなるようだ。
 
なので、家で何とかしたいなら、
・単純な動作をゆっくり繰り返すこと
・動きに専念し意識を集中すること
・呼吸とゆっくりした動きを合わせてみること
この三つをお勧めする。
 
 こういった動きをヨーガでは Sukshma Vyayama(スークシュマ・ヴィヤヤーマ)という。 神経の働きを変えてくれる可能性を持つ動きだ。
 
次は、この動きについて書いてみようと思う。

№291 慢性痛は治らないのか①

とある新年の昼食会にお招き頂いた。 そこでお二人の「腰が痛い」話をお聞きした。 その場に、私はヨガ教師として参加している訳ではないので、ただ黙って伺った。 
 
一例目。30代前半の方。若い頃から腰痛持ち。動くだけで痛みがある。通院してブロック注射を始め、これを何度か繰り返す予定。それで良くならなかったら手術も検討。
二例目。40代の方。ずっと腰が悪い。解消のために、運動などもたまに気が向いたらやってみることもあるが、効かない。なかなか良くならず辛い思いをしている。 
 
さて。
皆さんは、 慢性的な痛みは治らないと思っておられるだろうか?
 
教室にもたくさん、腰痛の方は来られる。 今、ここで取り上げる腰痛は、長く続く慢性的なものであって、骨折など原因がはっきりしているものは除く。ちなみに、医療チームの仲間である、理学療法士のO石先生によると、『手術では骨折やヘルニアなど原因がはっきりしている以外の痛みは軽くなりませんよ』とのこと。
 
この世に腰痛持ちの方はとても多いし、ヨガを始める前の私もそうだった。 
 
ヨガで腰痛は治るか?
数カ月以上、実習を継続した場合、腰痛が解消しなかった方に出会ったことがない。痛みが解消するまでの期間は、それぞれの症状による。
 
私のことを体操の先生だと思っている人がいるのだが、それは違う(この文章を読んで下さっているほとんどの方は、重々承知だと思う)。
 
ヨガの先生は、内面を通じて、”肉体という粗雑なもの”に働きかけることができると信じているが、粗雑なもの(肉体)のためにヨガをしている訳ではない。なので、解剖学などはサラッとしか学んでいない。
 
腰痛の原因は何だろうということについての私の考えは、以下のようなものになる。
 
①腰痛の人は腰・お尻・脚の力(必要な筋力等)が落ちている
②腰痛の人は、お腹を使った深い呼吸が苦手、もしくはできていない
③腰痛の人は、正しい腰の位置についてわかっていない
④そのため、体の使い方が間違っている
⑤腰痛の人のなかには、体のある部分の筋肉だけが、強張っている場合がある
⑥「腰痛は怒りである」という見方がある。何かに対して強いこだわりを持っている可能性がある。
⑦腰痛の方は、小さな筋群の力が低下しているため、バランスを取るのが苦手だったりする。
まあ、ざっとこんなところだろうか。 
 
では、腰痛は誰が直してくれますか?
 
腰痛が治らない方に共通しているのは、ここの部分だと思う。 
ハッキリ言いましょう。
お医者さんは腰痛を治してくれません。
 
あなたの腰痛を治せるのは、あなただけです。 
ということで、長くなるなので、今日はここまで。
明日以降に続く。 

№290

1月11日
今日は初釜だった。

床の間の掛物は、表千家十三代・即中斎宗匠の筆による「松樹千歳翠(しょうじゅ せんざいのみどり)」。如何にも目出度い!というお軸だ。
茶席では、季節やその会の目的に応じて道具が選ばれるわけだが、お正月にこのお軸を見ると、元旦の書店で筝曲・「春の海」を聴いたのと同じように、新春感がグッと胸に湧き上がってくる。

この即中斎宗匠という方は、実に良い字を書かれる。味のあるというか、この方の字を好まれる方は多いけれども、私も間違いなくその一人。
すべての宗匠が書き残された字を見ることができるのだが、五代・随流斎宗匠の字も美しい。ちなみに、表千家のお家元宗匠は、当代の猶有斎宗匠で十五代目。

茶席では、掛け軸というのは人格として扱われるので、皆がその前で一礼する。
今日の場合だと、そこに即中斎宗匠もご一緒して下さっているよ、ということになる。
こういう茶の感覚が私はとても好きで、軸を拝見するだけでジーンと感動したりする。

さて、お抹茶をすくって、茶碗に入れるための道具である“茶杓”も、同じく即中斎宗匠のお手作りの品。「聴流(ちょうりゅう)」というお銘。どんな意味があるかは、用いる人が考えて使用するのだが、私としては、流れに身を委ねつつも、その流れの静かな音に耳を澄ませている情景が心に浮かんだ。

本物を見て、触れることなくして目は養われないから、と師匠はいつも仰る。

美術館などにも行くけれども、ガラス越しに拝見することと、実際に道具として使われているものに触れることは、全く違った体験である。自分のなかに残る印象も異なる。
触れる、というのは実に豊かな経験だと思う。

茶道具は長生きである。
うんと古いものが大事にされて、今に伝わる。
我が家にある僅かな道具も、間違いなく私よりも長生きをする。
そのことを考えるとなんだか可笑しくなる。自分の生というものを、突き放して笑ってしまえるような気になるからだ。そして同時に、こういう芸の文化にのぼせることのできる平安を、身に沁みて感じたりする。

№289 影の仕事

明日は初釜である。
初釜というのは、今年の稽古始だと思って頂けばよい。
先生が今年初めて、弟子のために釜を掛け、茶を点てて下さる日である。

普段の稽古で、先生の点てて下さった茶を頂く機会はない。
1年で唯一、この日だけである。なので、弟子にとっては特別な日だ。

亭主との問答を担当する筆頭の客を「正客(しょうきゃく)」というが、このお役目は大変に緊張をするもの。私も数年前に、一度経験をさせて頂いた。

何しろ他の客は、聞きたいことがあっても、直接聞くことが許されていない。
そこのところをよく正客は弁えて、掛け軸のこと、花のこと、道具のこと、お茶のこと、お菓子のことなどなどについてお尋ねしつつ、亭主や他のお客と阿吽の呼吸で、その日のお席を盛り上げ、取り仕切っていかねばならない。

とはいえ、そんな力量がすぐにつくものではないので、こういった機会を通じて練習をさせて頂くということ。明日の正客さんは、今頃ドキドキしておられることだろう。

さて、通常であれば客として招かれ、先生がお手ずから点てて下さったお茶を頂くのだが、私は昨年から、お願いして裏方での仕事を手伝わせて頂いている。
表の華やかなお席でお茶を頂いているだけでは、先生のお心づくしは理解しきれないのだということが、この”影の仕事”を通じて理解できた。

1年で唯一の特別な席なので、先生も心を込めて大切な道具を披露して下さる。
影の仕事をお手伝いさせて頂くということは、こういった「お宝」を扱うということでもある。万が一何かがあっても、とても弁償などできるものではないから、一つひとつの所作を丁寧に、余裕を持って行うということが大切だ。

昨日のブログで、「動作を流して行わない」ということについて書いたが、こういった影の仕事の経験が、その気付きを得るために寄与してくれているとつくづく思う。

昨年、先生はお気遣い下さって、お席の最後に「裏方で励んでくれた」と私の紹介をして下さったが、本来のお席であればこういうことは無い。
芸にまつわること以外でも、影で懸命に取り組みつつ決して誰にも気付かれず、しかし誰かの幸福や満足の役に立てるような、そんな仕事がしたいものだと思う。