№294 神経と私のあいだに生じている誤解について
№293 「神経可塑的な動き」とは何か
№292 慢性痛は治らないのか②
こういった考え方を信念として採用し続けている限り、その慢性痛は治らない。
手術でも注射でも、薬でも治らない。
鎮痛剤を使っていたら、ますます困ったことになる。 慢性的な痛みを止めるために鎮痛剤を使用すると、結果として血流が低下してますます悪くなってしまう。
「なんで病院に行っても治らないんじゃい!」
「ええい、自分で治してやるわ!」
という心持ちになってみたりすると、ふと、新しい情報や治癒に繋がる技術に出会えたりするような気がする。
この問いに対する答えがYESだと思う方は、ヨガを体操の側面だけで捉えている可能性がある。
これが教師の最も重要な仕事だ。
肉体に痛みがある場合は特に、意識が痛みに向き、体のその部分を何とかしてやりたい(取り去って捨ててしまいたい!)という思いが、自分自身を苛むことにもなるようだ。
・単純な動作をゆっくり繰り返すこと
・動きに専念し意識を集中すること
・呼吸とゆっくりした動きを合わせてみること
この三つをお勧めする。
№291 慢性痛は治らないのか①
№290
1月11日
今日は初釜だった。
床の間の掛物は、表千家十三代・即中斎宗匠の筆による「松樹千歳翠(しょうじゅ せんざいのみどり)」。如何にも目出度い!というお軸だ。
茶席では、季節やその会の目的に応じて道具が選ばれるわけだが、お正月にこのお軸を見ると、元旦の書店で筝曲・「春の海」を聴いたのと同じように、新春感がグッと胸に湧き上がってくる。
この即中斎宗匠という方は、実に良い字を書かれる。味のあるというか、この方の字を好まれる方は多いけれども、私も間違いなくその一人。
すべての宗匠が書き残された字を見ることができるのだが、五代・随流斎宗匠の字も美しい。ちなみに、表千家のお家元宗匠は、当代の猶有斎宗匠で十五代目。
茶席では、掛け軸というのは人格として扱われるので、皆がその前で一礼する。
今日の場合だと、そこに即中斎宗匠もご一緒して下さっているよ、ということになる。
こういう茶の感覚が私はとても好きで、軸を拝見するだけでジーンと感動したりする。
さて、お抹茶をすくって、茶碗に入れるための道具である“茶杓”も、同じく即中斎宗匠のお手作りの品。「聴流(ちょうりゅう)」というお銘。どんな意味があるかは、用いる人が考えて使用するのだが、私としては、流れに身を委ねつつも、その流れの静かな音に耳を澄ませている情景が心に浮かんだ。
本物を見て、触れることなくして目は養われないから、と師匠はいつも仰る。
美術館などにも行くけれども、ガラス越しに拝見することと、実際に道具として使われているものに触れることは、全く違った体験である。自分のなかに残る印象も異なる。
触れる、というのは実に豊かな経験だと思う。
茶道具は長生きである。
うんと古いものが大事にされて、今に伝わる。
我が家にある僅かな道具も、間違いなく私よりも長生きをする。
そのことを考えるとなんだか可笑しくなる。自分の生というものを、突き放して笑ってしまえるような気になるからだ。そして同時に、こういう芸の文化にのぼせることのできる平安を、身に沁みて感じたりする。
№289 影の仕事
明日は初釜である。
初釜というのは、今年の稽古始だと思って頂けばよい。
先生が今年初めて、弟子のために釜を掛け、茶を点てて下さる日である。
普段の稽古で、先生の点てて下さった茶を頂く機会はない。
1年で唯一、この日だけである。なので、弟子にとっては特別な日だ。
亭主との問答を担当する筆頭の客を「正客(しょうきゃく)」というが、このお役目は大変に緊張をするもの。私も数年前に、一度経験をさせて頂いた。
何しろ他の客は、聞きたいことがあっても、直接聞くことが許されていない。
そこのところをよく正客は弁えて、掛け軸のこと、花のこと、道具のこと、お茶のこと、お菓子のことなどなどについてお尋ねしつつ、亭主や他のお客と阿吽の呼吸で、その日のお席を盛り上げ、取り仕切っていかねばならない。
とはいえ、そんな力量がすぐにつくものではないので、こういった機会を通じて練習をさせて頂くということ。明日の正客さんは、今頃ドキドキしておられることだろう。
さて、通常であれば客として招かれ、先生がお手ずから点てて下さったお茶を頂くのだが、私は昨年から、お願いして裏方での仕事を手伝わせて頂いている。
表の華やかなお席でお茶を頂いているだけでは、先生のお心づくしは理解しきれないのだということが、この”影の仕事”を通じて理解できた。
1年で唯一の特別な席なので、先生も心を込めて大切な道具を披露して下さる。
影の仕事をお手伝いさせて頂くということは、こういった「お宝」を扱うということでもある。万が一何かがあっても、とても弁償などできるものではないから、一つひとつの所作を丁寧に、余裕を持って行うということが大切だ。
昨日のブログで、「動作を流して行わない」ということについて書いたが、こういった影の仕事の経験が、その気付きを得るために寄与してくれているとつくづく思う。
昨年、先生はお気遣い下さって、お席の最後に「裏方で励んでくれた」と私の紹介をして下さったが、本来のお席であればこういうことは無い。
芸にまつわること以外でも、影で懸命に取り組みつつ決して誰にも気付かれず、しかし誰かの幸福や満足の役に立てるような、そんな仕事がしたいものだと思う。