蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№259  お誕生日

明日は師匠の誕生日である。
満83歳を迎えられる。

2002年に鳥取に住むようになってからのご縁で、まずは茶道、次に筝曲、一時期は華道もご教授頂いて、今に至る。
先生はすべて同じ人だが、お免状にはそれぞれ流儀での別のお名前が記されてある。
4つの名前をお持ちになる方なのだ。(あ、自分もだ…)

もう17年のお付き合いになるのかあ。

茶道に入門したのが20年前。岐阜県にて。
最初の師匠に会ったその日に「すぐに辞めるような人は、私は嫌いです」とにっこり笑って言われた。なんにも分からず、何の覚悟もなくそこにいた私は、心の底からタマゲた。

その師匠の教え

①始めたからにはやり通すべし。
②先生とは相性がある故、変えても構わない。
③ただし、流儀は一生変えてはならぬ。

後に追加された教え

④諦めなければ必ず誰かが助けてくれる。決して諦めるな。

これは、子供が生まれてから、お稽古に伺うのを遠慮しようとしたときに頂いたお言葉。このお言葉のお蔭で、赤子連れでも稽古を続けられた。

そしてこれらの教えを胸に転属してきた土地で、たまたま行ったN〇K文化センターで偶然出会ったのが、今の師匠。
この方も、「子供連れ可」と仰って下さった。そして今に至る。
子供たちも、それぞれ弟子となってお世話頂いている。
誠に有難いことである。

17年の間、それはそれはご迷惑をお掛けしてきた。
うつ症状の時は、直前になって人前に出ることが怖くなり初釜をドタキャンしたし、何かの折には着物の帯が自分では結べず、泣きながら、帯なしで先生宅に駆け込んで助けて頂いた。

親との間で大きなもめごとが起きた時、妊娠を継続できなかった時、病気になったとき、仕事を辞めた時、今の仕事で壁にぶつかったとき、講座詐欺のようなものに遭ってしまったとき。講習会で選手に選んで頂いたとき、準師範の試験を受けたとき。
普通の人なら親にして貰うような支えを、30代以降はこの先生にして頂いた。

この師の関係とは、私にとって疑似親子関係である。
幸いなことにお仕えした師が優れた方であったお蔭で、この関係にありがちな病理に悩まされることはなかった。これも幸いなことであった。

一時縁のあった先生の中には、関係性が継続し得なかった方たちもいる。
何故かと考えると、「自分のものの見方に固執する」「自らの手法以外を否定」「従わない弟子を批判」「自らを高い位置に置き、尊敬を求める」「言葉遣いが悪い(汚い)」というような点が思い浮かぶ。そこに私の未熟さが掛け合わさって、関係性が壊れた。

ではご縁の続いている方々はというと、「その時点での弟子の未熟さについては、後々受け容れられるレベルに達してから、過去を振り返る形で示唆する(短絡的な批判に陥らない)」「楽しい雰囲気を作りながらも、芸に関しては妥協しない」「弟子個々に対する目標設定を行っている(差異を受け入れている)」「温和で、親しみ深く、礼儀正しい」、更に「自らも師とする方に師事し、学び続けている(生きている「人」でない師も含め)」という、傾向があるかと思う。

優れた師の仕事とは「待つこと」だと、先生の在り様を見て感じたことがあり、それを申し上げたことがあったのだが、相好を崩して「わかってくれるか」と微笑まれた。

先程、同じく弟子である娘と共に、お祝いのお花を差し上げてきた。
これからも末永くお元気で、変わらずお導き下さいませ、との言上に、「良い弟子をもってしあわせです」と笑顔で仰ってくださった。
お悩ませしないように、芸も頑張らなくては!

№258 音楽と記憶

7:43
昨夜の体験について改めて考えてみる。

脳への刺激は、音、光、振動、運動などを通じてされるというので、初の大音響と光の競演に私の脳はびっくりしてひっくり返ったのだろう。

久保田さんは、私が中学生の時にデビューした方で、したがって人生の折々でその音楽を聴き続けてきたことになる。
演目は色々なので、新しいアルバムからのほとんど馴染みのない曲もあれば、懐かしい曲も披露された訳だが、19歳の秋に繰り返し聴き続けていた古い曲が演奏された時は、フラッシュバックのようにその時の思い出が湧き上がってきた。

当時私は、福岡県の航空自衛隊芦屋基地第3術科学校で初級補給員過程に在籍していた。
入隊して約半年、自衛隊という環境にもまだ慣れきらぬ中、慣れない基地、馴染みのない隊舎での、先輩、同期との共同生活。
秋も暮れようとしているもの寂しい時期、隊舎の窓からは林の木しか見えなかった。
近くには朝鮮戦争時代に米軍によって建てられたというチャペルがあって、霊が出るというもっぱらの噂だった。

3人部屋で一人になろうと思えば、イヤホンで音楽を聴きながら目を閉じるしかない。
そういう状況で、何度も何度も繰り返し聞いていた曲だった。寂しい気分が思い返されるのに、好きでたまらない。「そんな曲は聴かなければいいのに」と言われたこともあるのだが、そういう問題じゃないんだな!

情動は体で記憶されるという。
聴いた曲も、その時の感情と共に心素に納められているのだろう。

心素とは、記憶を貯蔵しているというところ。
歓喜鞘という、人間存在の最も深いところにあると言われる。
この歓喜鞘は、心臓の中の非常に小さい空洞の中に座していると言われ、小さいのだが五蔵のうちでもっとも力が大きい(うまく機能していれば)。

久保田さんは”FUNKY"という語をよく使われるのだが、今調べてみたところ、この語はもともと「怖気づいた、怯えている」という意味があるそうだ。

そうするとなんだか合点がいく。
彼の楽曲で私はイカしたFUNKY気分になりつつも、同時に怖気づいたFUNKY気分になった。

そもそも感情と結びつかないのなら、音楽はこんなに人を惹きつけないだろう。
私も、イカした「越後獅子」を三味線でかき鳴らして、誰かの暗い情動を動かしたい。

№257 根に響く音

先月も、神戸滞在中にブログ更新を失念してしまったが、今月もそうだった。
ハッと気付くと、既に日付が変わっていた。あーあ、またやってもうた…

さて、気を取り直して。
本日、大阪フェスティバルホールにて、久保田利伸のコンサートに行った。
人生初コンサート(クラシック以外)。

すごい。あの光と大音量。
根っこのチャクラが刺激されるような。
全体の中で2曲、背筋に電気が走る感覚を覚えた。

でも何と言うか、あの音と光という刺激を受けていると無意識が動くというか、しばらく忘れていた、理由のない不安感が湧き上がってきて驚いたのだ。

あれだけの大音量は皮膚でも感じ、体幹にも響く。
根のチャクラ・ムーラダーラは、人間の根源的な欲求や怖れに関わるところ。
この場にいる人が皆このような敏感さを持っているとは思わないが、音楽にを聴くという体験は、無意識に様々な情動に触れられることで、自らとの一体感を取り戻すという側面があるのかもしれない。
それとも音量と光がそうさせたのか。


しかし、この二日は忙しすぎた。
早くゆっくりしたい。
上記の件に関しても、もう少しゆっくり考えて書き留めておきたい。




№256 細かいことまで

今日、お知り合いの医師がシェアしていた記事に、パーキンソン病と腸内環境の関連について示唆する研究結果が出たとあった。
それを読んだ時には「ムムっ!」と思ったのだが、よく考えれば当然のことである。

薬をたくさん飲んでの副作用に苦しまれている人、下痢に苦しまれている人が教室に来られる。もちろんヨーガでできる貢献もあるとは思うけれど、ヨーガ以前に考えてみないといけないことがたくさんあるはずだ。

以前、学会で症例を発表した時に、W県のO先生が「ヨーガで良くなるって書いてないところがいいよ」と声を掛けて下さった。
その症例は、ある自己免疫疾患の方に対するものだったのだが、ヨーガでできることは不安感を弱めることと、多少QOLを上げることくらいだった。ご本人は随分と楽になったと言って下さり、何年もお付き合いが続いたが、ヨーガ以外のもっと役に立つアプローチの可能性が同時に検討されたらどうだっただろうか。

地方の一先生にできることは限られているけれど、ヨーガ教室に来るだけじゃダメなんだ!と声を大にして言いたい。

毒を食べても栄養にできるほどの修行は、私の所では無理です。
私もそんなことは無理なので、普通に腸内細菌も含めて大事に出来るよう、朝から晩まで、細々と色んなことに気を配って生きている。
できればこんな細々したこともお教えした上で、「ヨーガ教えてる」って言いたい。

№255 やり方は色々あるのでは

今日は、年に2回行われる研修会だった。
4年間のうちに、こういった研修会の参加を通じて単位を取得し、必要数に達していれば資格更新となる。

ヨーガ療法の勉強を始めたのは2007年なので、今年で13年目になるわけだ。
ということは、ウィルバーの本に出会って14年目ということ。

最初の頃、わたしの中で、先生は神さまのようだった。
ヨーガの師匠なので、もちろん嘘は仰らないが、ヨーガ以外の分野では先生にも知らないことがある。それは当然なのに、その当然のこともわかっていなかったかもしれない。

ヨーガは実践法として優れていて、「なにをすればいいか」が明示されている。
しかし、これを高いレベルでやり抜ける人はなかなかいない。
そのため、「自分はダメだ」と思っているセラピストが多いような気がする。

ヒマラヤのアシュラムでは、心肺機能の維持のために息が上がる反復の動きを行う。
これは、欧米で行われている「フィットネス・ヨガ」では見られない動きだが、高高度の土地で生きるためには必須の取り組みだという(私はヒマラヤには行ったことがない)。

日本の建物の2階は海抜7mくらいだと思うが、普段からこういう動きに習熟していない方の場合、高高度でなくとも「ゼエゼエハアハア」と息が上がるわけだが、もちろん師匠はそれがお気に召さないため、お小言を頂く事になる。
室内にハッとした空気が漂う。
それは決して、「よーし、ここから頑張るぞ!」という気配ではない。

ヨーガ以外のことを学ぶ機会にも恵まれ、今、そんな学びの仲間と協働を行っていこうとしている。
そこでは、自分がわからないことは分からない、できないことはできないことして、素直に開示をし、力を借りていく。
それは単に棲み分けで、あなたが海なら私は池でやるよ、といった風情であって、「できない自分でごめんなさい!」ということではない。

他の学びの場で、当時の自分にとっての「できないこと苦手なこと」を求められ、悪夢を見て叫んだこともあるが、その学びの場では「注意される」という経験をしたことがない。
心理的内的な圧はかかるが、外的な圧力はかけられたことがない。
「これでもいいんですか?」という思いだった。
その場を通じての経験と、ヨーガで学んだことに助けられて、自分は随分変わったなと思える。

今日の研修会で、とても謙虚で優しい先輩が「自分はまだまだだ、勉強が足りない」と仰られているのを聴いて、なんだか哀しくなった。
私たちの勉強が足りるのはいつになるだろうか。

懐の深いヨーガというものの世界に、多くのものが含まれている、と主張するのは、私には融合のように見える。
「ああ、ヨーガはそんな考え方はしないよ。だからそれぞれを大事に、一緒にやってみよう」というのが統合じゃないのかな。統合からじゃないと、新しいものは生まれないんじゃないかな。
高いレベルでの実践を求めることで苦しくなる人がいるなら、思いもよらなかった違うやり方を試してみてもいいんじゃないかな。

研究総会に、インテグラル理論の方々を招いてご講演頂きたいと思ってきたけど、その夢は修正しないといけないのかも、と思った今日。

№254 無音に近い

我が家にいる思春期女子は、人間関係に悩んでいるようだ。
お年頃に相応しい悩み。しっかり向き合って、苦しみぬいて欲しい。

それで朝起きた後、布団のなかで横になったまま(布団を並べて寝ているのだ)、その人間関係などについて話しをした。少し涙を浮かべていたが、真剣に考えている様子を頼もしいと感じた。

午前中のレッスンでは講座生のお二人と、それぞれの課題をネタにディスカッションをした。午後も友人と久々にしっかり話をした。

とにかく今日は人の話を聴き、語りまくった1日。
どの対話も内容が濃く、今、自分のなかは無音状態。なにも出てこない。

水俣病に対する学者や行政の、悪い冗談にしか思えない対応について気炎を吐きたかったのだが、明日以降にする。
一言だけ書いておくと、「苦界浄土」を読んだ人はこの本を読んだ方がいい。

ではおやすみなさい。

№253 健全な視点

ここのところハマっている曲がある。

トマス・スミス作曲「フェスティバル・バリエーション」。
N響の演奏がお気に入り。お暇な方はぜひ聴いてみて下さい!

優美なホルン・ソロのあと、4分28秒の指揮者(現田茂夫さん)の微笑みがたまらない。そりゃあ、こんなソロを聴かせてくれたら、この表情出ますよ。
高校生の頃、先輩からもらったカセットテープで繰り返し聴いた曲。
とても懐かしい。何十年と経った今聴いても、やはり素晴らしい。元気が出ます。


さて、「大逆事件 ~死と生の群像」田中伸尚・著を読了。
昨夜からは「医学者は公害事件で何をしてきたのか」津田敏秀・著を読み始めた。
『医学者や行政に対する幻想など捨て去るのが、問題解決の第一歩』と津田氏は言う。

司法は幸徳らの判決を覆さなかったが、市民レベルでの顕彰運動が功を奏している地域もある。社会の中での大きな問題への対処に、個々人が当たる訳にはいかないため、誰かを代表者として判断を委ねているのに、その判断が正しくない場合はどうしたらいいのか。
自分たちが生きる社会に対する批判的な視点を持ち、何らかの形でかかわりを持ち続けることをやめてはいけないと思う。知識を得ずに思考停止に陥ることも避けたい。
インテグラルであるとは、政治的であるということ」と、ウィルバーも言ってましたよね。

昨日、ノリオ先生がある記事を紹介されていた。
「欧米版マインドフルネスに搾取されないために」というもの。
これも、「今の」右下象限(制度・システム)を「当たり前のこと」として受け入れてしまうことの危険性を指摘していると思う。

インド人は、「生きてることそのものが、逃げ出さないといけない状況」と考えている。なので、輪廻から抜け出るために、色んなことに取り組む。そして、その取り組みの一部を、有難がって使わせて頂いているのが現代のヨガ教師。私のこと。

話がこれくらい壮大になると、右下象限の圧倒的な有様に「もう仕様がないわ~」と腹を括って、ヨガでもやるか!という案が妥当にも思えてくる。

この場合の右下象限を何とかしてしまえる存在って、なに?
絶対者ブラフマン? プルシャ? それじゃあ、自己の最奥に座すと言われるブラフマンに働きかけた方が早いよね、ということで、ヨガ(瞑想)でもやるか、ということになる(私の場合は)。

でも多くの人は、マインドフルネスをそのようには使ってないらしい。
もっと寝ずに働けるようになるため、もっと効率よく優れた仕事をして、現世利益(おカネとか?)を獲得するためにこの手法を使う。そしてこの手法を学ぶためにお金を払う。もっと働ける素晴らしいあなたにしてくれるための、瞑想ビジネスがあるそうな。

そりゃ変だね。
そういう時には自分の既存の価値観をぶっ壊して、走って逃げろって教わった。
瞑想してたら、「天上天下唯我独尊」の境地になるはず。今の右下象限を疑わずに、自分の方を適合させようとするなんて、瞑想じゃないでしょう。

社会に対しても、自分が属する業界に対しても、健全で批判的な目を持っていたいと思う。



C.T.Smith: Festival Variations