蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№222 健康ってなんだろうか

今日は某ハム会社さん同好会のレッスン。
健康と病気の境目には何があるか、という話になった。

調子は如何ですか? とお尋ねすると、
「まあまあです」や「元気ですが、どこそこが痛いです」、というお答えを頂くことがあるのだが、そういうお言葉を聞いていると、正直言って暴れたくなる。

健康がまあまあでいいのか?!

健康と病気のあいだには、深くて速い「未病」の河がある。
本当の健康人はなかなかいない。
と同時に、身に病を持ちつつも健やかな人がいる。
健康を肉体の問題だけと捉えて欲しくないし、「所詮こんなもんだ」という諦めの気持ちで過ごして欲しくもない。

どうせ年だからこんなもんだ、という言葉を軽く口にする方たちがいる。
また、自分の体のことなのに、自分がどうしたいかをはっきりと決められない人も多い。

ヨーガ教室に来る時に、「全人的に健康になりたいです」と言って来られる方はいない(残念ながら私の所には来られたことがない)。

元気?
と尋ねた時に、高いレベルで自分自身の健康について語れる人が増えて欲しい、という野望を持っている。

今日私の大事な友人が、体調不良で診察を受けていることを知った。
「でも全然元気だよ」という言葉に葛藤を覚えた。

いつもとほんの少し違うことが体の中に起きている時、それを確かに感じ取れる感度を持つ人を一人でも多く育てていきたい。
そして、グルグル回る思考で自分の心身を痛めつけてしまうことをしないように、練習してもらいたいと思う。

さて、昨晩、マイスター・エックハルトの「神の慰めの書」を読了した。
「光は暗きに照る」
人々が暗きに迷い苦悩にさいなまれる時こそ、まさに彼らにとって光を仰ぐべきときである。

自分が何となく健康だということにしていると、光を仰ぐ行動に結びつなかい。
多くを求めて欲しい。

№221 パタンジャリ先生

今日は次女ネタから。
次女が修学旅行に出発した。
当初、香港・マカオの予定だったのだがこんな情勢で行けるわけもなく、台湾に変更になった上、気の毒なことに日程も短くなった。とは言え、初めての海外旅行にワクワクしている様子がビンビンと伝わってきて、傍で見ていてとても微笑ましかった。
色んな経験をしてきて欲しい。

さて、2年半前に受験した試験のテキストを再読している。
「インド中央政府ヨーガ指導者資格試験 オフィシャル・ガイドブック(日本語版)」1~3巻。

「ヨーガという言葉は、現在では別のものを指している」という記述がある。
『ヨーガに関する誤解』という部分だ。

30年前にヨーガを学んだものからすると、本来の伝統からとても異なるものに変化している、という。「ヨーガを単なる運動として考える人もいるが、ヨーガはそれ以上のもの」という、「それ以上のもの」という表現に思いがこもっていて、とても好ましい。

「ヨーガって、そんなんじゃないんですよ!」と言ってしまっているのだが、「それ以上のものなんですよ」という表現の方が美しいな。これからは私もこんな風に言うことにしよう。

はい、ではヨーガってなんですか?

心理、肉体、宗教性を統合し、自己実現の状態に達することを目的とする、壮大な自制法である。

という、表現を始めとして、いろんな人がいろんな表現でいろんなことを言っている。

「ヨーガは結合であり、paramatoma(神我)と jeevatoma(個我)との合一である。」という表現はかなり固くて、伝える人を選びそう。

さて、昔々、パタンジャリ先生という偉大な人がいて、ヨーガの九つの障害というものを定義されている(ヨーガ・スートラⅠ-30)。
この九つのせいで心が乱れる。

1. 肉体の病気
2. 無気力
3. 疑い
4.不注意、優先順位を間違えること
5.怠惰
6. 渇望、頑固な愛着
7. 新たな境地を見出せぬこと
8. 心の不安定さ

心が乱れると、こんな兆候が表れる(ヨーガ・スートラⅠ-31)
 苦悩、落胆、手足の震え、荒い息遣い


このようなことの他にも、「心をきれいにするには」「煩悩ってなんだ」などという興味深い話題が満載。とはいえ、読んで理解するのは難しいなあとつくづく思う。

ヨーガを勉強していると「神様」について言及されることが多いのだが、この「神様」は「自在神/イーシュワラ」といい、宇宙の創造、維持、破壊の機能を果たす。

ヨーガ・スートラを編纂したパタンジャリ先生は、このイーシュワラを「特別なプルシャ(純粋意識)」と定義していて、これまでもその姿形を現したことがなく、これからも決して具象化しないものとしている。時間によって制限されることもない。
この神は宗教的な神ではなく、ヨーガ・スートラにも礼拝や儀式に関する記述はない。

「神」という日本語が誤解を生じさせる?
神って言われると、イメージが固定されてしまいそうになる。
もうそのまま、イーシュワラとかプルシャという「力/エネルギー」と言ってしまったらどうだろうか。

などということを、テキストを読み返しながら考えていた。
娘の乗った飛行機は、四国の高松空港から出発。
今頃はもう空の上。

№220 名前に込めたもの

本日は長女の誕生日。
私はこの娘に「蓮」を意味する名前をつけた。

二人の娘のどちらも、名前の画数などを勘定したこともない。
親が思いを込めた名に、悪いものなど無いという確信を持っている。
(世の中には不思議な名をもらった子供たちもいるようなので、私個人はそう思う、ということで)。

さて、長女に蓮の名をつけた理由は、その当時、私は自分のことが嫌いだったから。

妊娠中に、当時住んでいた岐阜市で、新岐阜駅から柳瀬まで向かう通りをひとりで歩いていた時、そこにあったお寺に「今月の言葉」が掲げてあった。

曰く、「蓮は泥中より発し 清らかな花を咲かす」

頭を、何か尊いお道具でコツーン!と叩かれたような気持ちになった。
その頃、人生は思うに任せず、辛いことばかりだと思っていた。
自分のような救いがたい者が、なんでまた子供を授かったものか、などとも感じていた。この言葉を読んでまず考えたのは、「自分=泥」「子供=花」ということで、こんな親に似てくれるな、清らかに育ってくれ、という狂おしい思いで名前をつけた。

私の屋号はこの禅語に因んでいる(そしてブログ名にも)。
時間を経た今、私はもう自分の事を嫌いではない。そもそも自分というものの解釈まで違っている。だって私というものは、存在のかさぶたに過ぎない。自己存在の中心に在る、生まれてきたことも死ぬこともないものこそが、真の私だ。
この禅語に出会った数年後にウィルバーの本やヨーガに出会い、人に支えられて取り組みを続けた結果、分離した泥のような私がいるという幻想を、手放すことができた。

維摩経に由来するというこの禅語を、今は当時とは違った解釈で読み、それは仕事をする上での信念にも繋がっている。
清流で育つと、蓮は大きな花を咲かせないそうだ。
泥があるからこそ、そこから滋養を貰って、茎を天に伸ばして花開く。
泥というのは、今苦しんでいる自分自身であったり、辛い経験や抑えがたい情動のことだろうと思う。それがどんなに苦しくとも、それがなくては人は成長することも悟りを開くことも出来ない。その泥のような思いこそが、滋養そのものとなって人を生かす。

人の目に触れないところで、泣きながら苦しみながらしっかりと根っこを張って、他と比べることできない花を咲かせ、生きることを通じて誰か他の存在の力になること(一生会うこともない人も含めて)。
泥と根っこ無くしては、花は決して咲かない。泥を厭わなくていいのだ。

ちなみにこの数年後に授かった次女には、
「夜道で迷う人の、行く手を照らす星のような人であって欲しい」
という思いを込めて名をつけた。これはマザーグースから啓示を得た。
それぞれの子が、個性豊かに育っていることを有難く思う。
正直言うと、若い頃は自分が親になるなんて思っても見なかった。
訳あって私を通じて生まれてきたのであろう娘たちに、深い感謝の念を覚える。
それぞれの生き方の中で、自分自身も他者も、大切にして生きて欲しい。

今地図を見て確認したところ、上記のお寺は岐阜市神田町の円徳寺かと思われる。
浄土真宗本願寺派織田信長にゆかりのあるお寺だという。
お礼参りに行かなくてはね。


№219 安心しているか?

今朝のクラスでは奥深い対話がなされた。
私たちは、自分というものを、小さくて儚いものと勘違いして生きている。

ヨーガでも、自らをヒツジと勘違いして成長した仔ライオンの例話がある。
ヨーガの思想では、私たちの存在の最奥の部分には「真我」がいるとされている。
それなのに私たちは、真我を運ぶための馬車(肉体)を私そのものと勘違いして生きている。

今朝、ある方が、金魚の水槽を見て感じたことを語って下さった。
小さな水槽の中で生きる金魚は、その世界がすべて。
私たちは自分自身の妄想によって、水槽を作り上げているかもしれない。
「自分は小さな限りある肉体に過ぎない」という誤った信念を基に。


さて、来月お会いする予定だった方が、現在ご療養中だ。
ご養生の助けになるようなものを、ここに書いてみたいと思う。

ヨーガは体操から始まる。
体操を行うことで、自分の考えていることに改めて気付くことがある。これを意識化という。意識することで、自分の肉体を苦しめている思考を、止めたり滅したりすることを目指す。

意識せずにいると、肉体の反応も偶然任せになる。自分の肉体なのに、思い通りにならない物体を押し付けられたような気になることも生じてしまうだろう。

なので、自分が何を考えるかを意識する。
思考の種類によっては、脳内で扁桃体が反応してストレス・ホルモンの分泌を促す。
ストレス反応が起こっている限り、あなたは苦しむことになる。

だからストレス反応を止め、自らを助ける努力をする。
肉体を何とかしようとするのではなく、自分が世界をどのように受け止めているかを調べる。

少なくとも、今この瞬間、あなたは確かに生きている。
静かにゆっくり息を吐き出すことに集中すると、身体的な不快感は和らいでくるかもしれない。
こうしているだけで十分だ、安心だと思えた時、意識せずとも息は深く吐き出される。
その時、あなたの脳の中も普段と状態が変わっているだろう。
そもそも心が乱れ、呼吸が乱れたところから肉体の不調が始まると「ヨーガ・スートラ」は語る。
穏やかな精神状態、そして呼吸の中で、肉体にも癒しが起こる。

まず、自分が、自分を癒したいという思いを持ち、生きていることへの感謝を捧げること。単純なことかもしれないが、このことがこの上ない治療となる。

ヨーガとは、平穏な時からこういったことを鍛錬し、いざという時にその技量を試す。その繰り返しのこと。

どうぞお大事に養生なさってください。
1日も早いご本復を、心よりお祈りしています。

№218 伝記映画にハマる

先日、映画「ペンタゴン・ペーパーズ」を見て興味を覚え、ワシントンポストの社主であったキャサリン・グラハムの伝記を購入し読んでいる。今は、ベトナム戦争に対する、社としての態度を変換しようとしている場面だ。

ベトナム戦争の最中に生まれた私は、この戦争のことをほとんど知らない。
映画なども2次大戦ものばかり見てきた。たぶん、学生時代に受けた平和教育が影響を与えているのだと思う。ものすごい視野狭窄。これじゃいかんでしょう。
自分たちがどんな目に遭ったかということを掘り下げることと、人がどんな目に遭っているかを学ぶことはどちらも重要で、疎かにされてはならないと思う。

軍隊における補給の重要性を学ぶため、自衛隊の補給員課程で取り上げられていたのはインパール作戦
知ってますか?インパール作戦。1944年にビルマで行われた作戦ですよ。
祖母の兄弟がこの作戦に従軍したと言っていたので、個人的に親近感は覚えるし、詳細を知ると黙っておられない気分になるが、それでも補給の勉強ならなんか他にもっといい教材はあるんじゃないの?と、今でも思う。
マーチン・ファンクレフェルトの「補給戦 -何が勝敗を決定するのか」を、みんなで読んでみるとか。

ベトナム戦争にちなんだ映画としては「ランボー」か。
これは「指揮統御」の授業で視聴した。自衛隊の教材選びって面白いな。なぜこの映画が指揮統御を考える素材となるのか、もっと深くディスカッションしてみたかった。でも私は下士官だったので、そんなに難しいことは考える必要がなかったのかもしれない。こんなことを思うから、下士官として自衛官を続けられなかったのかと、振り返ってみたりもする。

で、キャサリン・グラハムの伝記の話に戻ると、この時代のアメリカのことをもうちょっと知っておきたくなったのだ。この伝記の後には、ウォーターゲート事件について勉強してみたく、予習のつもりで、ウォーターゲート事件に関する映画も借りた。(https://eiga.com/movie/87933/
他におススメがあったら教えて下さい。


さてさて、昨日いくつか借りたDVDのなかで、イヴ・サンローランの伝記映画が私には大ヒットだった!

ファッション業界のことも何にも知らない。あまり興味もなく、「プラダを着た悪魔」のなかで、青いセーターについてメリル・ストリープが語る内容に心底驚いた。アンドレアも同じ気持ちだったんだろうな…

イヴ・サンローランは、当時まだフランス領だったアルジェリアで1936年に生まれた。18歳でクリスチャン・ディオールに見込まれ、後継者として直々に育てられる。21歳でディオールの突然の死により、クチュリエとして抜擢され鮮烈なデビューを飾った。

ところが、1960年にアルジェリア独立戦争に徴兵されてしまう。入隊20日で神経衰弱との診断で精神病院に送られるのだが、原因は性的志向を嘲られての軍隊内でのいじめ。しかもこの入院を理由に、入営中にディオールは彼をクチュリエから罷免した。

その彼を、恋人であったピエール・ベルジェが支え続け、サンローランは”モードの帝王”として君臨し続けたという。もちろん才能も豊かであったのだが、才能は諸刃の剣でもあると思う。何かに突出していれば、きっと何かが出来ない。人は誰かに助けられてこそ、その才能を世に還元できるんだなあ!としみじみ思わされる映画だ。

サンローランは自らが受けた差別や偏見の故に苦しみ、同時に偏見に屈しない生き方を貫いたと思う。有色人種のモデル起用にいち早く取り組み、自身のセクシャリティーをオープンにしたという。勇気あるなあ!

ということで、映画はまだ途中なので、残りを視聴しようっと。

https://eiga.com/movie/80320/

№217 違う道の同志

来月、東京でセミナーをさせて頂く事になり、現在資料を作成中。
「何のためにヨーガという手法を用いるのか」という点についてご理解下さっているクライエント様とのお仕事で、とてもワクワクしている。

昨日は夢から醒める過程で突然思いついたことがあり、朝4時に飛び起きて調べ物をした。
ウィルバーの「統合心理学への道」や「実践インテグラル・ライフ」、ヴィヴェーカナンダ大師の著作なども改めてひっくり返しながら、ああかなこうかなと考えていたら、久々に肩こりになった。

昨日午後からは、畜産を専門とする友人と小旅行に出かけ、真摯なものづくりをする方の下で醸されたお酒を頂いた。そのお酒が生み出された場所で、生み出した人の言葉を伺いながら頂く、とても贅沢な時間だった。

明けた今朝は、細部までこだわり抜かれた、生鮮食品としてのフレッシュなコーヒーを飲みにいった。

コーヒーって、「たかがコーヒー」って思われている。
色んな事情がヨーガとすごく似ている。軽く消費されていて、本物を追及する者は困難な道を逞しく歩いていくしかない。

私の周囲にはこだわりのひとが多い。変人と言っていいかと思う。もちろん自分も含めて。
それぞれがそれぞれの道でとことん穴を掘って、その先で出会った、そんな感じ。
まったく別の分野で、別の用語を使ってるのに、話が通じる。

マイスター・エックハルトの本を読みながら、「『バガヴァット・ギーター』とおんなじこと言ってるわ」と思うのと似ている。
大事なことは、表現方法は違えど、同じなのだ。

「私は、こうした智慧の伝統に存在する本当の違いを過小に見るつもりはないが、少なくとも、ここには深層構造的な相似性があること、それは様々な智慧の伝統における洞察の真に普遍的な性質の雄弁な証言であることを指摘しておきたい。」
と、ウィルバーも言ってる。うん。

№216 マントラ効果についての考察

マントラ真言)の効果について、その音の持つヴァイブレーションが大事なのであって、意味は特にないとか、知らなくてもいいいとするような説があるが、師匠がそれを痛烈に批判しておられた。

「九官鳥に教えれば何万回も唱えるが、人になったりしないだろ」とのお言葉。

人でなければ悟ることも出来ないので、そもそも九官鳥であるということが悟りを求めるという観点から見るとガッカリということなのだろうが、訳あって今生九官鳥であるのだから、ちょっと可哀そうな言い様である。

うーんでも… 声明とか讃美歌など、聴くだけで清冽な気を受けることができる。
認知症の家族の悪態を聞き続けた人は、消耗して目つきが変わってしまう。
言葉というものの持つエネルギーの持つ力が今よりもっと説得力のある説明をしてくれるようになったら、お師匠様も違う見解を持たれるだろうか。

前職を退職した後に、数日間の瞑想セミナーを受講するため上京した。
そこではマントラを「授け」られた。これを繰り返し唱えて瞑想するようにと。
今になって思うと、世界的に有名なインド系アメリカ人の、スピリチュアルな金儲けに引っかかっただけのことだったのかもしれないが、瞑想の習慣化には一役買ってくれた。

そこで「授かった」マントラは、「意味のない音」だとの説明を受けた。それを繰り返すって、今思うとただの集中(ダーラナ)で、ものすごく初期の段階だとわかる。
瞑想のその先を教えるのはとても難しいことなので、それもしょうがないことかなとは思うが。

習慣化のためのサポートグループでは、瞑想を行うことによって「空いている駐車場に運良く出会う」人が多いということを知った。
しかし中にはまともな人がいて、「僕は駐車場を見つけるために瞑想をしているんじゃないのに」とのコメントをされていた。全くその通り。
何か、もっといいものをゲットするために瞑想はあるんじゃない。もっと仕事ができるために、睡眠時間を削って働けるようになるためにするのでもない。
今の自分(のものの見方)をぶっ壊して、再構築するためにある。

とはいえ、駐車場が空くのは事実なのだった。
ここは田舎なので、出かけた先で駐車場が空いていないとしょんぼりする羽目になるのだが、目の前で車が出ていってスコンと停められることがほとんどなのだ。
家族全員に認知されている再現性のある事象である。(修行に縁のない主人は、逆の目に遭っているらしい)

さて、後年、ご縁あってヒマラヤの導師から瑜伽名(聖名)を拝受したが、その時には意味のあるマントラを「贈られた」。
直訳すると「絶対者ブラフマンに礼拝します」。
その心は、非二元の境地に至るための修行を支えてください、というものかと思う。非二元なので修行も努力も本来必要は無いのだが、それはまあさておき。

ということで、マントラの意味を絶対に知っておくべきか否かということについては、現時点では中立の立場を維持しておきたいと思う。om。