蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№215 なんにも知らなかった

今日も図書館に行った。
昨日は、茶道具関連の図録をあれこれ借りて楽しんだ。

2015年にサントリー美術館で開催された「藤田美術館の至宝」展で、曜変天目も大亀の香合も実物を見たのに、なぜか図録を購入していない。当時の自分を大声で叱ってやりたい。
ポストカードだけは購入していたことを思い出したので、ひっぱり出して眺めた。
実物には敵わないけれど。

いつも一緒に美術館巡りをする兄弟弟子が、近々、奈良の国立博物館に出向くとのことなので、今年開催された「国宝の殿堂 藤田美術館展」の図録購入を依頼した。
曜変天目を所有している藤田美術館は、現在改装のため長期休館中なのだが、2022年にリニューアルオープンしたら、またこの茶碗に会いに行こう。


さて、今日は第一次世界大戦について描いた、タルディのバンドデシネを2冊借りた。
この本を出版したのは、2014年にできたばかりの「共和国」という出版社だそうだ。

第一次大戦については、何も知らないのだと分かった。
長崎出身の私は、子供の頃から平和教育を受けてきたこともあって、戦争の歴史に対する関心は強い方なのだが、まったく何も知らない。恥ずかしいくらいに。

「この戦争に対するフランス人と日本人との歴史認識が大きく違っており、日本人にはこの作品の凄さがなかなか伝わらないのではないか」と、訳者あとがきにあるように、私が受けた衝撃は、まるで架空の世界で起きた悲惨な出来事を見るような感覚に近い。
もしかすると、被爆者の方に対する世界の人の目もこの様であるのかと思う。

今日、せっかくこのことに気付いたのだから、少しずつ知識を増やしていきたい。

 

汚れた戦争: 1914-1918

汚れた戦争: 1914-1918

 

 

 

 

 

№214 愛は受け取れているのか

昨日は早朝から夜までハードなスケジュールだったが、心は豊かに満ち足りて帰ってきた。

帰宅後は改めてこの度の展示会の図録や、2016年に開催された楽家の「茶碗のなかの宇宙」展の図録を見返した。娘たちも、乳児の頃から稽古場に出入りさせて頂き、お道具を拝見する機会に恵まれてきたので、先生から頂戴したお菓子(中村藤吉本店・生茶ゼリー)を味わいながら、一緒にあれこれと語り合った。
猶有斎宗匠が水指に描かれた、「鶴亀」の絵がとても素敵だ。

ちなみに今回の高島屋でのお好みもの展、図録が2400円ほどで販売されている。
入場こそ無料だが錚々たるお道具ばかり。すべて千家十職さんの新作。そして家元の好みもの。そしてここに展示されているものは、いずれ個人所有となり、目にすることも叶わなくなる。京都に住んでいたら毎日行きたい。

さて、今朝、最近なかなかお会いできていなかった某先生からお電話を頂戴した。
弟子の私としては、ご無礼続きであることが情けなく、「先生はご立腹ではないか」と思っていたのだが、先生は純粋に私のことを案じて下さっていて、「ああ、元気で良かった!」とお優しい言葉を掛けて下さった。
そこでハッとした。

どうやら私は、「人は自分に怒っている」という無意識の思い込みがある。

実は掛かってくる電話も苦手だ。
「あー、なんかしちゃったのかな…」と、取る前から叱られる前提でビクビクしてしまう。トラウマがあるのだ。
他にも、「人は自分のことなど気にかけていない」という思い込みもあるような気がする。

実は先月の講座で、「幼少期の誤った思い込みを修正する」というワークを行った。
非常に簡単なものなのだが、継続するとなると難しい。講座生のうち、ご希望の方々とグループを作り、毎日のワーク継続をお互いでサポートしている。
実際にこのワークを行ってみると、皆さんも様々な変化を体感されておられようだし、私自身は夢を覚えておけるようになり、過去の嫌な思い出がふわりと浮かんできたり、こうして自分のことを意識化しやすくなったりという変化を感じている。

「知足」を感じられるようになったのも、ここ最近の変化だ。
不足を感じて生きているつもりはなかったのだが、自分を減点法で厳しく見ていたことに思い至った。
修行会に出た時など、一時的に良い状態を経験することは誰でもあると思うが、それが一瞬の幻に過ぎなかったことが今になってよく分かる。

そこで思う。
自分は、人からの愛情を受け取れていなかったのではないか。

内心に怖さを抱いて生きてきたのは無意識のことで、そういうプログラミングはたぶん幼少期にできたものなのだろうが、それを何とかする(癒す)こともできる。
修行大好きで、人に勧めると「そんなの無理~」と言われるようなことをやることで解放や平安を求めてきたのだが、実はそんなに難しいことは必要じゃなかった。

毎日少しずつの努力を積み重ねることを、ヨーガでは「タパス」という。
努力でもあり、情熱とも訳される。
実は努力って情熱そのもので、悪い自分を何とかするためのものじゃなかった。

そんなにビクビクするなよ、こんなに思われてるじゃないの、と、自分に言ってやることにしたい。



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昨日伺った、楽美術館

 

No.213 好み物展を拝見して

本日は早朝より、師匠のお供をして京都へ出向いた。

表千家 猶有斎お家元宗匠と而妙斎宗匠のお好み物展が、京都高島屋にて本日より開催、その展観に伺った。

先年、猶有斎宗匠表千家不審菴十五代を襲名なさった。
襲名という一生に一度限りの機会、お家元として初めてのお好み物展に接することができて光栄であった。

ご縁に恵まれて、お茶の道で稽古させて頂いてきたが、これまで目にすることができたもの、経験することができたものは私のなかに確かに残り、決して奪われることのない宝となっている。

若い頃には道具の価値などは理解できず、ただ点前の稽古ができさえすれば良かったのだか、師匠のお導きで職家さん方にお目にかかったり、様々な道具について学ばせて頂くなかで、道具というものに精魂を込める方々のお心が少しずつわかるようになった。
道具を単なる物として見ていた視点から、道具は職家さん、作家さんの魂の発露なのだという見方に変容していった。

そこからは、貴重なお道具を見る機会があれば、そのためだけに東京や関西に出向くようになった。
師匠と共に、職家さんの作品を見る場にお連れ頂くこともさせて頂いてきた。

お茶会などでは、師匠が所有される貴重なお道具を扱わせて頂くこともあるのだか、自分で道具を求めた経験のない者は、真の意味で道具を大事にできないとお聞きした。

高価なものではなくとも、自分なりの好みものに出会い、惚れ抜いてそれを手に入れたとき、先生のお言葉の意味が、ほんの少し理解できた気がした。

自分にとっての宝であるお道具でお茶を頂くのは最高に贅沢なのだが、その道具で、大切な人をもてなすのは更に楽しいのだという。

私はまだ茶事を催したりしたことはないが、いつか自分が惚れた茶碗で、大切な人たちにお茶を差し上げたいという夢を持っている。

実を言うと、私はこれまで自分の不足な点ばかりに注目して生きていたような気がするのだが、自分のなかに、お師匠さま方が育てて下さったものが、確かに積み上げられてきていることをしみじみと感じた。

有り難い、そして嬉しいというこの心持ち。
お稽古してきて良かったな、お師匠さまにお会いできて良かったなと、温かいものが私の身体を巡る。

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№212 まだ見ない景色

本日は午前中に大事なミーティングを終えた後、あれこれと小さな用を済ませた。
夕方は筝曲の稽古。
稽古は月に3回ある。箏と三弦の双方を稽古させて頂く。
楽器はお借りするが、爪と撥(バチ)は自分のものを持参する。
今は、3つの曲目を練習している。

来春3月、兵庫県西宮の芸術文化センターにて、菊井筝楽社本部定演。山陰支部の演目で「越後獅子」を演奏する。これは三絃で出演する。
来年(2020年)秋の演奏会は、菊井筝楽社・山陰支部40周年の記念演奏会。米子市
ご宗家をお迎えしての、大切な会となる。
露払いに宮城道雄先生の「都踊り」大合奏とのことで、前回からこの曲の稽古も始まった。これはまだ楽器はどちらになるか決まっていない。まずは箏で唄を付けていく練習をする。
来月の会で演奏する曲は、週末に合奏が始まったので、この場ではもうお稽古をしない。

さて、筝曲のお稽古はどんなものかというと…
お稽古場に二面のお箏が差し向かいで置かれており、奥が先生、点前が弟子、という配置になる。お箏も三弦も、椅子に座って立奏の形で稽古する。1時間近く稽古するので、足が痺れてしまうからだ。

そして、先生と一緒に弾く。
自分の譜面を見て、自分の音を確かめながら、先生の音(正しい演奏)にも意識を向ける。脳がフル回転している感覚。

目が見て、手が弾くのを、意識が観察している。
何かを考えると(「このハジキでいつも間違えるから、気を付けて上手に弾こう」など)思考が邪魔をして、手がミスをする。

家で一人で練習すると、うまくいかない時につい止まってしまうし、「あれ、これで良かったかな…」と考えてしまう訳だが、先生は止まってくれない。稽古では徹底的に訓練されていると思う。考えたって上手くならない。

これを繰り返していくと、だんだん目と手が慣れてきて、弾けるようになっていく。
筝曲は、1曲が10分以上かかる曲が多いが、少しずつ先に進み、いつか必ず終いまで弾けるようになる。

このことが、とても心を豊かにしてくれる。
諦めなければ、いつか必ず弾けるようになる。

あの曲もこの曲も、始めは歌と手(楽器)がてんでばらばら、家で練習してもおかしな具合に覚えてしまっていて、頑張りが仇になる、というような時を経て、「あの苦しみはいったい何だったのかな~」という晴れやかな気分に、一瞬はなる。
だが、改めて演奏してみると、やはり名曲は奥深くやり尽くすことは出来ない。
芸に終わりがないことを思い知らされる。それはそれは豊かな世界。

今日の私は、昨日より少し上手くなっているかもしれないが、行く道の先は常に霧の中のようにぼんやりしている。
ここでは、目は見えても、行く道の先は見えない。
遠くから師匠の呼ぶ声が聴こえるので、耳を澄ませて必死についていく。
振り返ると美しい景色が広がっている。
でもまだ見ぬ先の景色をもっと見てみたい。
そんな気持ち。

№211 生きているのか、生かされているのか

曇り空の1日。
また台風が関東地方に向かっている。二つも。
なぜ追い打ちをかけるような動きをするのか、憎らしいような気持ち。
この台風でどうか被害が出ませんように。

昨日、娘と二人でTSUTAYAに出かけた。
読書時に使用する蛍光ペンが切れそうだったため、散歩がてら出かけた。
ついでにDVDもレンタルし、「ペンタゴン・ペーパーズ」という映画を見た。

会社の存続までもが危ぶまれるような記事を掲載するか否かについて、議論が戦わされるが、メリル・ストリープ演じるワシントン・ポスト社主のキャサリン・グラハムは英断を下す。
役員はビジネスのことばかり言い立てる。自分の身にさえ、火の粉が降りかからなければいいのか。
ひどく醜く見える。

私たちの生きる世界でも、経済が大きな力を持つ。お金がないと、しあわせも買えないかのような表現をする人も多い。本当にそうかな?

幸福は無条件。
お金がなかったら奪われるようなものが幸福と言えるか。
条件により不幸に転じてしまうようなものを、幸福とは呼ばない。

条件を多くし、「これを理解していれば、もっと良く生きられますよ」「他のものよりもずっと役に立ちますよ」と、いうようなものが多いように見えて辟易するけれど。

「本質ビジネスは売れない」と、何度も言われたことがある。
さて、私はビジネスがしたいのか。儲けたいのか。
信じるところを伝えたくてたまらないから、仕事をしているのか。

鈴木俊隆師が、「法輪と食輪」という言葉で、すべきことをして生きる時、必ず生かされるということを語られている。
この言葉の方を、信じていたいという気持ちでいっぱい。

№210 芸術と美味しいものの秋

昨晩は久々の合奏に参加した。

11月に、鳥取県西伯郡南部町のとある地域で行われる「収穫祭」に、毎年、お姉さん弟子の社中が参加される為、助っ人として演奏に加わる。
土地の野菜や、手作りの美味しいものが売り出されたりするので、それを皆さんと一緒に頂いたりすることも楽しい。

ちなみにこの南部町は富有柿が有名で、よく見ると街灯も柿の形。
この街灯、ふるさと創生事業の1億円で作ったらしいです…

この町では、毎年11月に「柿の種飛ばし大会」がある。1等はハワイ旅行。
鬼太郎で有名な境港市が、「ゲゲゲの鬼太郎 下駄飛ばし大会」というのをやっているが、柿の種飛ばし大会の方が歴史は古いらしい。

詳しくはこちらをどうぞ。

https://rurubu.jp/andmore/spot/20000643

 

ところで合奏について。
この度の演目は、先代宗家が華道家の委嘱により作曲された「いけはなの曲(秋)」。

「そも いけ花は 古より 陰陽五行 天地和合の道とかや」

という荘重な出だしから始まり、転調して爛漫の春を歌う「春」、淑やかに美しい「秋」という二つのバージョンがあって、その季節に相応しいものを演奏する。

季節の花々の名前がふんだんに歌詞に散りばめられ、大きな演奏会では、舞台上で大きな瓶に花を活け、曲が終わると同時に花も活け終えるというパフォーマンスを披露することもある。
それはそれは華やかで美しい曲だ。

試験曲でもあるこの曲は、これまでも度々演奏する機会に恵まれてきた。
本手と替手、と呼ばれる箏の二重奏に、十七絃という低音のお箏、そして尺八と合奏する。歌が付いているので、箏を演奏しながら歌を歌う。

何度も何度も演奏してきたのに、やはり難しい。
同じ曲を何度弾いても、満足は出来ない。曲を弾いて飽きるということはなく、もっと上手に弾きたいといつも思う。

真の遊びは時間もかかり、究めがいのあるものだと、この二つの道を通じて教えられた。大変なことがないとは言わないが、涼しい顔をして「ああ、楽しい!」と、一生言い続けたい。


№209 場の力

今日はお茶のお稽古日だった。
文化センターでのお稽古のお手伝いをさせて頂くのだが、3カ月ほどお休みさせて頂いて、先週復帰したところだ。

新しい土地で先生に出会おうとする時、NHKや新聞社などが運営している文化センター(カルチャースクール)は、伝統的な芸事に関してはその土地で一番の先生を配されていることが多い。
健康教室などはそうでもないと思う。何しろ私も駆け出しのころから教室を持っていたくらいだから(推薦は頂いたが)。

私もこの土地にやってきて、この文化センターで先生に出会った。
すぐにご自宅での稽古をお許し頂いたので、在籍期間は短かったけれど、不明な点が多いうちは非常に便利だ。娘も、小学5年生のときから、ここで正式なお稽古を始めた。

ということで、思い入れも大変深いし、ご自宅でのお稽古とは違って、準備や片付けまでさせて頂ける(水屋仕事、という)。
これがとても良い勉強になるのだ。

ところが最近、在籍人数が少ない。以前は人がひしめくようだったのに、とても残念なことだ。
皆さんもある程度の歴になると、順次ご自宅でのお稽古に移っていかれるので、仲間が減った訳ではないのだが、文化センターでは出来ることに限りがあるので、仕様が無い面もある。

今は子供たちが頑張ってお稽古をしている。
1年生の女の子が二人、もう釜の前に座って、美味しいお茶を点ててくれる。

でも、2時間のお稽古のあいだ、1年生の子たちがずっと集中しておられるわけもなく、約3カ月ぶりに伺うと、なんだか無法地帯のようになっていたのだった。

こういう時、師匠が厳しくされると、子供たちは辛くなって辞めてしまう。
なので、師匠は絶対に厳しいことを仰らず、「待ち」の姿勢で時間をかけて育てて下さる。

自分も後から振り返ると、赤面するような恥ずかしいことがたくさんあるが、焦らずのんびりと育てて頂いたからこそ、「お茶大好き!」と言えるようになった。たぶん今の自分の事も、後々振り返ると赤面すると思う。

こういう時に大事なのが、「場の力」だと思う。
はっきり口で注意されたりする訳でないが、雰囲気で「あ、今のはやっちゃいけないことだったんだな」とか「ああ、そんな風にするといいんだな」「ああいう動きはカッコいいな」など、人の振る舞いや様子から無言の教えを受ける、それが場の力かなと思う。

今の文化センターのお稽古では、大人の人口が子供の数より少ないがために、この場の力が発揮できていない状態になっていた。
数か月休ませて頂いたことを、本当に申し訳なく思う。

なので、先週から気を取り直して、子供たちに対して「先生ではない大人」から気を発して、あれこれ話しかけたりしている。
様々な世代の皆が、うまく調和し合ってお稽古させて頂けるといいなあと思う。
「北風と太陽」の太陽のような、先生のご教授に心から感服しつつ、皆で「喫茶去」だなあ。